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炎の剣

安産・子授けのご利益・大母神の所縁の地「比婆山」の里 母里郷

(島根県安来市伯太町)

伊邪那美命と加具土命

◆国造りの始まり
日本最古の歴史書「古事記」を読むと、高天原と呼ばれる神々の住む場所から、イザナギノミコトとイザナミノミコトの兄と妹が派遣され、協力して国を造るように命じられたところから国家建造の物語は始まります。
古事記や日本書紀に書かれていることはあまりに抽象的な表現であるため、様々な意見や捉え方があり、事実を特定する事はできませんが、ここ比婆山周辺の伝承や遺跡を踏まえた解釈で読み進めると、まだ国という形が出来ていない日本に渡来人がやってきて、国家建造に多大な影響を及ぼした事が分かります。渡来人が何者であったかは諸説ありますが、日本は自然と資源が豊かな土地というのは今も昔も変わらず、調査にやってくる者、資源を求める者、戦火から逃れてくる者、はたまた失われた国家再建やニューフロンティアを夢見る者など、多くの渡来人が様々な思惑をもってこの地へやってきたという説があります。時期的には縄文時代後期頃~弥生時代にあたります。


◆「元始、女性は実に太陽だった」
古事記には当初、女性主導(イザナミ)で国造りを始めてみましたが、上手く行かなかったと書かれています。実は古代は母権社会であったと、万葉集にもそのような事を連想させる歌がいくつも書かれています。母神信仰をするような時代であったなら、確かに男性より女性の方が中心の社会だったかもしれませんね。母神信仰や自然を崇拝する先住民たちの中には、国家建造プロジェクトに最後までまつろわない者たち(水蛭子、淡島)が居たと解釈する説があります。
そこで、今度は男性主導(イザナギ)で国造りを推し進めてみたところ、うまくいきましたと記されています。武力によって国家建造を推し進める上で男性の地位と権力が強まり、母権社会から父権社会への移行があった事を伝えているのかもしれません。最近は社会で女性の活躍が目立つようになってきましたが、争いのない時代では、女性を中心とした社会の方が上手くいくのかもしれません。縄文時代が長らく続いた背景には、そうした社会のあり方があったのかもしれません。


◆製鉄の始まり
この頃(紀元前2世紀)には、日本各地に小さな国々が乱立し土地争いが始まったと言われていますが、時期を同じくして山陰地方では良質な鉄がたくさん採れる事もあり、いち早く製鉄が始まったようです。(製鉄技術は紀元前15世紀にはヒッタイトの民によって発見されており、紀元前12世紀にはヒッタイトの滅亡と共にその技術が世界各地に流出したのですが、日本で製鉄が始まったのは、その約2000年後の6世紀と言われています。しかし、日本への鉄器の流入(紀元前3世紀頃)と普及時期とのギャップが大きすぎるため、紀元前1~2世紀には山陰地方を主としてすでに大規模な製鉄が行われていたという説が有力です)

◆比婆山周辺に見え隠れする一大勢力
比婆山の向かいにある上の台・赤屋地区(島根県安来市伯太町赤屋)はたたら製鉄発祥の地と言われています。空が赤く染まるほどの野たたらの火が燃え盛る様子から「赤屋(あかや)」という地名が付いたと言われています。赤屋地区の上小竹には、渡来系民族の中でも最も勢力の大きかった秦氏一族が伯耆国より来住したとの話があります。秦氏は鷹を象徴としていましたので、上小竹には鷹入山という地名が今でも存在しています(余談ですが、鷹入りの滝は名水100選に選ばれるほどの清流です)。秦氏一族は製鉄技術に優れていましたので、この地域周辺で良質な鉄が採れるとの噂を聞きつけ目を付けたものと思われます。

また、鷹入山の隣にある長江山には、大国主命が「八雲立つ出雲国は我が治め守る」と国譲りと合わせ出雲国の平定堅持を宣言した「稚児岩(ちごいわ)」と言われる巨大岩の祭壇跡がありますが、大国主命とは秦一族であったのではないかとの説もあります。この地域は文理(もり:出雲国は我が治め「守」るから名付いた。後に母理郷、現在の母里)と言われ、大国主命とは深い関わりがあります。そして、標高330mの上の台(上ノ代)山頂に古墳住居跡群が発見されましたが、この古墳が秦一族の長たちの古墳である可能性があり、上の台は高天原であったのではないかとする説が戦前には騒がれており、この地域に強大な集団が存在した事がうかがえます。


◆古事記が描いた時代転換
いずれにしても、この地域一帯で製鉄が盛んに行われました。山々を切り崩して炭の原料をとり、川の形を変え、森の木々をなぎ倒して野だたらを行い製鉄を進めました。野たたらの火で山々の空を赤く染めたり、時には山火事を引き起こした事もあったでしょう。その様子は一種の産業革命であり、自然崇拝と母神信仰の衰退でもありました。古事記にはその様子が、イザナミノミコト(国生みの母神)の死に重ねて描かれているように思えます。イザナミノミコトは火の神を産んだ際に陰部に火傷を負い、その後、鉄の神・金山毘古神、土木の神・波邇夜須毘古神、灌漑の神・弥都波能売神などを産みましたが、結局、火傷が元で亡くなったとあります。母神信仰や祖霊崇拝では山自体が御神体であり母神の子宮への入り口ですので、野だたらの火で山々が赤々と燃える様は母神の陰部が焼けるようなものであり、それが陰部を火傷したという比喩的な表現に繋がったものと思われます。
そして古事記には「故其の神避りましし伊邪那美神は出雲国と伯伎国(島根県と鳥取県)との堺比婆之山に葬しまつりき」—とイザナミノミコトは比婆山に葬られたと記されています。また出雲風土記には「比婆山は蓋し是れ能義郡母理郷日波村の山也(現在の島根県安来市伯太町日次・横屋地区)」と記されています。比婆山の山頂にはイザナミノミコトの墓陵と言い伝えられる古い墳墓が存在します。イザナミノミコトはここ比婆山の山頂より、黄泉の国と言われるあの世へ旅立ったとの事でした。


◆意味深な結末
ところが母神イザナミノミコトの出番はここで終わりませんでした。この後、イザナギはあの世へ旅立ったイザナミを追いかけ、もう一度やり直そうと連れ帰りに向かいます。しかし、恐ろしく変わり果てた姿になったイザナミを見てイザナギは逃げ帰った挙句、実の妹であり妻であるイザナミを巨大な岩で二度とあの世から出てこれないように封じ込めてしまいます。そして、大岩越しに話し合った結果、離縁する事になりました。イザナギの一見身勝手とも思わる行為には疑問を感じますが、書き手としては、イザナミを化け物にして封じ込めておきたかった思いが伝わってきます。

これがいったい何を意味するのでしょうか?一神教の神話でも似たようなお話が見られます。ギリシャ神話のメドゥーサやユダヤ・キリスト教のリリス、いずれも最初は美しき女性に描かれますが、最後は蛇の化け物や悪者役に落とされます。蛇は悪者の敵役として英雄作りと民衆の先導に利用されたのかもしれません。民衆を惑わす祟りや自然への畏怖が、時として支配者の地位や統治を簡単に揺るがす時代ですので、土着的な信仰や迷信の排除は、円滑な統治と開拓事業を遂行するためには必要であった事が史記や三国志の話にも見られます。しかし、出土した縄文土器や土偶などを見れば、相当に根強い信仰があったことがうかがえます。イザナギノミコトは化け物姿のイザナミノミコトとその配下の者たちに追いかけられ、あの世から黄泉平坂(よもつひらさか:現在の松江市東出雲町)まで命辛々(いのちからがら)逃げてきたと書かれています。もしかすると時の権力者が、母神信仰の厚い人たちの反乱を受けて一時的に海際まで後退したのかもしれませんね。

日本各地に母神の墓と言われる場所がありますが、これは地母神の崇拝が広く行われていた証拠でもあります。広島県にも比婆山があり、その比婆山の近くの船通山へ英雄スサノヲが舞い降り、八岐大蛇を退治します。これも土着的な信仰や民族を排除し製鉄を始めた(大蛇を倒し鉄製の剣を手にする)事に関連しているのではないかと思われます。古事記によれば、スサノヲは亡き母の国へ行きたいと泣き叫び、イザナギに追放されますが、辿り着いた先で地母神の象徴である大蛇(羽羽:ハハ=母)を「天羽々斬(あめのはばきり)」という剣で倒します。一見矛盾するようにも思えますが、古事記にはイザナミノミコトと蛇の関連性が直接的には描かれていないため、地母神をモデルにはしたものの、同一ではないのかもしれません。(間接的には、あの世のイザナミは八雷神をまとっていたという表記があります。古来、雷は光の蛇とも言われていました)

蝦夷・アイヌ

水蛭子(ひるこ)は恵比寿や蝦夷と言った別名もあり、大和朝廷とは相容れず、北へと追われた縄文民族やアイヌ系民族の事ではないかとの説があります。
(写真:wikipediaより)

加曾利貝塚

日本最大級と言われるの縄文遺跡「加曽利貝塚」(千葉県千葉市)。大規模なムラが存在し、縄文時代の信仰が盛んであった。淡島とは淡水混じりの島とも考えられる。下図は千葉県の縄文時代の海岸線。以前は本州とは離れた島のようであり、淡水と海水が入り混じる豊かな漁場が広がっていた。縄文遺跡が関東に集中している理由の一つと言える。淡島とはこの辺りに繁栄していた縄文人の勢力だったかもしれず、気候変動によって縄文晩期に各地へ散っていった自然信仰の厚い淡島人の事かもしれません。そのため全国各地には淡島神社が存在しています
​(写真:加曽利貝塚博物館より)

アワシマの民
淡島神社

全国各地の淡島神社。関東や九州の淡水が交じり合う豊かな漁場周辺に多く見られる。縄文人は約6000年、気候変動による寒冷化に伴い、東日本中心から西日本、九州へ徐々に南下していった。

ソロモンの秘宝

秦氏は滅亡した古代イスラエルのソロモン帝国を脱出したユダヤ人の末裔ではないかと言われています。帝国滅亡は預言者イザヤによって既に警告され、その予言に従った者たちが帝国の秘宝と言われるモーセの石板とそれを収めたアークの柩を持って脱出したとの説があります。また預言には、遥か東の島々で再興を図れとの言葉もあり、秘宝はユダヤ人の末裔である者たちによって日本に持ち込まれたとのロマンある話もあります。イザヤという名前がイザナギとイザナミに関係しイザナミの神陵がある事、秦氏がこの地に来住した事、アークには聖なる鳥があしらってあり、秦氏の象徴が鷹であった事と鷹入山という意味深な名前が付いている事、かごめの歌に秘宝の在りかが示されていると言われるが、籠目とは六角形の紋様で亀のように岩で固く閉ざした場所であり、比婆山と上の台は、古来より鶴山と亀山と言われ一対の山だが、夜明けに朝日を浴びた上の台の影が伸びて比婆山と一つになったとき、その後ろの直線状に稚児岩がある事、稚児岩が巨大な岩場である事などを連想すると、もしかすると何か隠されているのかもしれませんね。

上ノ代からの眺望

標高330mにも関わらず、出雲や伯伎、遠くは隠岐の島までを一望できる上の台(写真:上の台緑の村からの景色)。この高台に謎の古墳群が残る。秦氏一族は戦国時代頃まで安来市伯太町赤屋地区に居たが、その後、安来市伯太町井尻地区に移ったと伝わる。伯太という地名は、博多の語源とも言われる。伯太の語源については不明だが、古代中国・周王朝の正当な継承者である「太伯」が、呉に流れ呉王となったが、呉が滅亡した際に、多くの民と太伯の子孫が日本列島に避難したと言う説がある。魏の時代に倭国邪馬台国にやってきた魏の使者に対し、我々は太伯の子孫であると答えた。儒教に基づけば帰国して王朝を建てる権利がある事になるので使者は驚いたと言う。邪馬台国と伯太という名が残る地域には何か関係があるのかもしれない。

​雲伯堺
比婆山

大母神の坐所

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